精神世界

宗教・スピリチュアルという言葉が持つ胡散臭さについて考える

わたし自身こんなブログを立ち上げておきながら、人様のスピリチュアル的な発言を見聞きすると、場合によってはなんて胡散臭いんだ!と思うことがあります。(もちろん素晴らしい!と思う場合もありますが)

また、世間の宗教団体についても軒並み胡散臭いから近づきたくない・関わり合いたくないと思っている人間です。

この、宗教・スピリチュアルという言葉から喚起される本能的な気持ち悪さってどこからくるんだろうかちょっと考えてみました。

これについては、過去の自分の記憶も掘り起こして、かつて自分はこう思っていたという部分も含めて書いてみます。

そもそもありもしないものを信じているのでは?という疑念

昔読んだ小説の一文に「人類史上最大のマジックとは、人間に神を信じ込ませたこと」と書いてあったのを今でも覚えています。

それを読んだ当時のわたしは、「まったくだ!なんて知見に富んだ言葉なんだ」と感心しきりでした。

どうやったら、人間はこんなありもしない神という概念を現代まで信じ続けてこれたんだろうと率直に疑問を持ちましたし、ダーウィンの進化論に異を唱えているキリスト教なんかには、現実を捻じ曲げてありもしないものを信じようとする盲目さ、傲慢さに少し腹が立ったりもしていました。

この文章を書いていたら少し昔のことを思い出したのですが、ありもしない宗教を信じて幸せそうにしている人をみて、馬鹿馬鹿しいと思う半面、そんな綺麗事を心から信じれる人生って幸せだろうなって羨ましく思っていた気がします。

こんな自分が、インド精神文化とインド占星術の勉強をしているんですから、人生って恐ろしいです(´・ω・`)

ちょっと脱線しますが、宗教を信じる信じないの話も含めて面白かった小説が「ガダラの豚」ですね。

ガダラの豚〈1〉 (集英社文庫)

面白い小説って何?ってテーマで、結構取り上げられることが多い小説です。

自分の価値観を信じ過ぎている人が怖いし、テロや犯罪とも縁深い

わたしは、ひとつの価値観で自己完結している人をみると何をしでかすがわからない、怖いといった感情を本能的に持ちます。

宗教というのはある意味において、何かを盲目的に信仰するという面があるので、信仰の対象によっては大規模テロなんて犯罪を「自分は正しいことをしている」と思い込んで平気でやらかしたりします。

それに宗教戦争なんかは自分たちの宗教の方が正しいんだ!という価値観の対立からどれだけの命が犠牲になったかわかりません。

よく、確信を持って活動することが大事という言葉も聞くのですが、確信を持つことの危うさの方にわたしは先に意識が向かいます。

だって、自分が正しいという確信を持っている人がユダヤ人を虐殺したり、日本に原爆を落としたりしていると思うからです。

少しでも自己を省みたり、懐疑の目線を送る視点があればこんな悲劇は起きないんじゃないかと思います。

そういった意味において、自分が正しいんだと思えることより、自分に健全な懐疑の目線を送れる方がよほどいいんじゃないのか?と思うこともあります。

あとは、宗教・スピリチュアルという名の下に弱者から搾取する団体や個人もいっぱいいますのでそれも胡散臭さの原因でしょう。

人が宗教・スピリチュアルに興味を持つのって、「人生の辛いとき」が多い分、簡単に胡散臭いものに騙されたりしやすいですからね。

 

本当の宗教の教えは、勉強すればするほど真に価値あるものだということがわかってくるんですけどね。

そんな今なお、世間で宗教・スピリチュアルという言葉を聞くとコソコソ逃げたくなる自分がいるのですm(__)m

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